狩野画塾跡



説 明 板

狩野(かのう)画塾跡
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(一六三〇)に江戸に召し出され、竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永六年(一七七七)六代典信(栄川)の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角に当たるこの地に移って、画塾を開きました。
奥絵師四家のなかでも最も繁栄した木挽町狩野派は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集りました。門人のほとんどは諸候のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(勝川)の門下生です。
平成九年三月
中央区教育委員会
 
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