ビバ!江戸
江戸にもあったサラリーマン金融(消費者金融)。しかもそのサラリーマンとは国家公務員クラスの立場の旗本・御家人限定。
享保九年(1724)に株仲間が認許され、一万数千人の蔵米取りの旗本・御家人を相手に、彼らの俸禄米を担保とした高利金融を、わずか109人の札差で独占した。その結果、巨万の富を得た札差は十八大通に代表されるような豪勢な蔵前風の風俗を生み出した。

江戸の札差し(金融)


札差(ふださし)とは
本来の業務 旗本・御家人の代理として、蔵米を受け取り、その米を飯料を差し引いて当日の米相場で現金化し、手数料を差し引いて現金と食する米のみを各屋敷に届けた。手数料は、百俵で金三分。
金融業 のちに、蔵米を担保とした貸金業務をおこなう。利率は18%と市中の金融業者より低いが、奥印金、礼金、月踊り等々の不正利殖で財をなし、豪奢な生活ぶりを誇った。


浅草御米蔵
元和6年(1620)の創設。それ以前数カ所あった米蔵は享保頃ここに統一された。
全国の天領からの年貢米を保管した倉庫。それらは主に旗本・御家人に支給された。
お米蔵地図 浅草御蔵跡碑
現在では浅草御米蔵の痕跡はないが、住所が台東区蔵前として残っている。
本所御蔵は享保19年(1734)創設。もと竹木の倉庫だったところに建てられので御竹蔵とも呼ばれた。浅草が主で本所が従の関係。
この地図では両国橋と吾妻橋のみが江戸時代にも存在した
浅草御蔵跡碑 蔵前橋西詰め(上流側)
下流側には首尾の松の碑が建っている。

札差年譜
★棄捐令(きえんれい)
5年以前の借金は帳消し。公定利率を18%から12%にする。
★無利子年賦返済令
全ての借金を無利子とする。元金の返済は20年以上の年賦とする。
新規の借金については利率10%。


その他の江戸の金融(一般庶民相手)
  名  称
内     容 
年利換算
(年360日として)

烏金
(からすがね)

明け烏が鳴く頃借りて夕方のカァまでに返す。あるいは、翌朝のカァまでともいわれる。原則、一日の貸し借り。一両で利子四百文
3,600%
百一文
(ひゃくいちもん)
朝100文借りて夕方101文にして返す
棒手振などが、借りた金で品物を仕入れる元金とした。
限度額は、百文から一貫文まで。
360%
日済貸し
(ひなしがし)
期限を決め利子天引きで毎日均等割で返済
 86%
質屋
(しちや)
元禄5年(1692)株仲間を結成。
銭百文について一ヶ月銭三文
36%
座頭金
(ざとうがね)
高利で期限も短く、返済が遅れると厳しく催促された。社会的弱者の立場から幕府も手厚く保護した。三両につき月一分
 100%
   この他に、浪人金、後家養育金などもあった。
札差(ふださし) 寛政の棄捐令で12%
18%
現在の消費者金融 10万円未満…20% 100万円未満…18% (年365日)
18%

十八大通(じゅうはちだいつう)エピソード 『江戸の高利貸 旗本・御家人と札差』北原進 吉川弘文館より
下野屋十右衛門(祇蘭)の場合
下野屋十右衛門は、祇蘭という号であった。彼は相模の大山参詣に行くのに、奉納の太刀を三間半(6.4m)もの長さにこしらえて、若い者3、40人に揃いの浴衣をきせてかつがせ、自分はふとんを厚く重ねた駕籠の戸をあけさせて、一同の掛け念仏でよい気持ちでゆられながら出かけた。しかしあまりに身分をはずれた派手な奢りに、町奉行所では捨てておけず、芝口から品川にかかるあたりで追っ手につかまり、駕籠から引きずり出されて高手小手に縛り上げられ 、牢に入れられてしまった。
ところが、同じ牢内に、ばくち打ちのツン吉という者がいて、何かと祇蘭の面倒を見て、恩をきせていたらしい。やがて祇蘭は許され、2ヶ月ほどたってツン吉も出牢した。ツン吉は牢内でのことをタネに、下野屋をゆすっていくばくかの金品にあずかろうと、蔵前の店を訪ねると、祇蘭は内心ギクリとしながら座敷に招じ入れた。祇蘭はツン吉に向かって、「さてさて、先頃は貴様のいかい世話ゆえ、牢内も楽をして助かりたり。その恩忘れやらず」といっ て女房に何かをささやく。女房も心得て戸棚から紙包みをとってツン吉の前へ置く。ここは、中を改めて「これでは少ない」と難くせをつけなければ、芝居じみた展開がない。ところが紙包みには、大枚百両が入っていた。下種の身で初めて手にした大金、ツン吉はふるえて立ち上がることもできず、腰を抜かしたまま後ずさりして 帰っていった。
利倉屋庄左衛門の場合
ある日札差の利倉屋庄左衛門が、銀の針金元結で、はやりの蔵前本多に髪を結い、黒羽織に鮫鞘の脇差をして、下谷あたりを「蔵前風に」歩いていた。この姿を髪結床にいた数人の若者があざ笑うと、庄左衛門は振り返りざま髪結床の上げ板をはずし、床をみじんに打ち砕いた。髪結の親方がしきりに詫びるのに聞こうと もせず、腹のおさまるまで散々に店を打ちこわし、さてさっぱりした顔つきで座敷に上がって、ふところから金子二〇両を取り出し、「これで普請せよ」と親方に渡して帰っていった。髪結床の普請にはじゅうぶんすぎるほどの資金で、親方はかえって喜んだようであるが、侠気を出して突っ張り、大騒ぎをおこした末に、大金を投 げ出して収めるというやりかたが、大通らしいとされるところである。
笠倉屋平十郎の場合
自分の所持する小判に平の字の極印を打って使用した。すなわち平の極印を打った小判は、一度は笠倉屋の店を通った金貨ということである。江戸中でこれを平十郎小判とよんでいたが、これも大身代の札差だからこそ、小判の信用を高めるようなものとして黙認したことで、だれでも天下の通貨に公然 と傷つけて許されるものではなかった。彼は、浅草橋場町に、豪壮な別荘をたてて妾を抱え、日頃から琵琶・胡弓・管絃・らっぱを好んで楽しんでいた。別荘の庭の敷石や植込みの樹々の華美なことは大名衆もおよばず、平十郎屋敷とよばれていたが、後年の寛政改革で取り締まりにあい、取払いとなってしまった。
大口屋八兵衛(金翠)の場合
髭の意休を気取った金翠(大口屋八兵衛)は、蔵前ではやっていた博打に夢中になっていた。ある晩、四〇〇両も負けて帰り、よほど腹が収まらなかったのか、翌日は前夜の腹いせに箱崎町の角屋敷の沽券状(土地の証文)と、慶長小判の一二〇〇両を持って鉄火場に出かけ、くやしまぎれに丁、と張り出した。さすがに 一座の胴取りの人々も、あまりの大金だからと張り直すよう意見を言ったが、騎虎の勢いの金翠は聞き入れようとしない。仕方がない、それでは勝負、と壺をあければ、半。ガラリとこの一二〇〇両をとられ、箱崎町の地面も失ってしまった。後日、八兵衛の支配人が現金五〇〇両を持参して胴元と掛け合い、どうやら沽券状は取り 戻すことができたという。
※以上はあくまでも逸話です。真偽の程は定かではありません。

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補足
江戸の武士の俸禄
江戸の旗本・御家人
江戸の代官
蔵米(くらまい)
旗本・御家人で給与形態が米の現物で支給されたクラス(蔵米取)にその支給された米。

奥印金(おくいんきん)
札差と旗本・御家人の貸借関係においては、公定の利率が定められているが、それ以外ではこの規定に縛られないことに目を付け、札差が札旦那から金談を受けたとき、自己の貸し付け資金が不足だと偽って架空の金主をつくり、自分はその保証人となって借金証文に奥印を押してやる方法。
礼金
自分が金主との仲立ちをし、保証人の印まで押してやったことに恩を着せ礼金を取るやり口。
月踊り
借金証文を書き換えるとき、旧証文の最後の月を新証文の最初の月に組み込んで、1ヶ月分の利子を二重に取るやり方。

札差から見て蔵米取りは札旦那。蔵米取りから見て札差は蔵宿。

借金を全て清算しない限り、蔵米取は蔵宿を変更できない。
借金が累積してなかなか新たな借金のできない旗本・御家人は腕の立つ浪人ややくざ者を雇って(蔵宿師;くらやどし)暴力に訴えて金を借り出そうとした。
これに対抗して札差は、腕っぷしが強くて、かつ弁の立つ者(対談方;たいだんかた)を雇い蔵宿師を追い返した。






安永・天明期といえば、賄賂政治で悪名高い田沼時代であるが、経済は彼の取った重商主義で発展した。
寛政の改革の棄捐令で札差もかなりの打撃を受けた。その後文化・文政期に盛り返すが、再び天保の改革で無利子年賦返済令が出される。
明治維新では官員への給与に蔵米の支給が廃止されたため、担保そのものが無くなり、札差業は消滅した。









棒手振(ぼてふり)
天秤棒で商品を担ぎ、売り歩いた行商人。





十八大通
明和〜天明(1764ー89)ごろ、江戸で豪奢な消費ぶりを気取って通人を自任した一群の江戸富裕町人たち。
風体:髪型は本多髷といい、刷毛先を短くし、中剃りをひろくする。黒地の三枚小袖、ひざ下まである長羽織に五つ紋所。鮫鞘の脇差しを落とし差しにして、河東節を口ずさみ大仰に歩いた。
浅草蔵前の札差
大口屋治兵衛暁雨
大口屋八兵衛金翠
近江屋佐平次景舎
下野屋十右衛門祇蘭
大和屋太郎次文魚
松阪屋市右衛門左達
吉原遊女屋の主人
大黒屋庄六秀民
など
寛政の改革の風俗取締りによって消滅した。


 

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